「映え」こと「インスタ映え」こと、「インスタグラムで見映える」。
今の時代、猫も杓子も、映え、映え、映え、映え。
味がおいしいか、モノが使いやすいか、気持ちがいいか、なんてことは二の次、三の次で、
大事なのは、インスタグラムで見映えがするかどうか、
今の時代、生活者を行動へと駆り立てるのは、
映えるかどうか、なのであります。
その裏には、SNSによる承認欲求、
要は、いいねが欲しい、自分の存在を認めてほしい、ということがあるようで、
”映え”る投稿をUPする → ”いいね”がつく → 自分の存在が認められる
ということのようですが、
これってなんかおかしくないですか?
いいねがついているのは、あなたではなく、映えたモノなり映えた場所なのでは?
違います。映えるモノとか、映える場所とともにいる私が、いいね、なんです。だって?
いやいや、それはあなたじゃなくても、いいねでしょう。
あなたである固有性は何もないよねっていうことは、あなたの存在が認められているっていうわけではないですよね、
なんて感じてしまうのは、ただの偏屈おやじなんでしょうか。
この映え現象、冷静に考えると、
映えるかどうかが行動を決める要因になるっていうのは、本来自分のものであるはずの行動原理を自分ではなく周りに委ねているってことにもなりますよね。
で、その周りっていうのは、場合によっては会ったことも見たこともない、ただいいねをしあうだけのソーシャルネットワーク上の人だったりもするわけで。
自律ではなく他律ですね。
旅行に行くのも、自分が本当に行きたいところよりも映えるところを。
旅行に来て行く服も、自分が本当に着たい服よりも映える服を。
そんなことでただ一度きりの人生、本当にいいのでしょうか。
なんて感じてしまうのは、ただの偏屈おやじなんでしょうか。
そもそも、会ったことも見たこともない人のいいね、ほしいかな。
あ、ほしいか。私もほしいな。
自分がやったことに対するフィードバックは確かにほしい。
ただ、映える写真っていうのは、果たして自分がやったことなのか、というのが論点なんだな。
映える写真っていうのは、
お前ら、こんなん好きなんやろう的な、こんなん用意しといたら映えるやろ的な感じで用意されたモノとか場所に、ほいほいハエのようにたかっているだけなんだよね。
その寂しさを自覚しないとね。
映えようと映えまいと、自分にしかできない何かを残したいものです。