ワチキはエビが大好きである。
どれくらい好きかというと、エビが好きすぎてエビアレルギーになるくらいエビが好きなんである。
「エビアレルギーでおまんねん」と言うと大抵の人は、「あ、甲殻類あかんねや」って言う。
けど、ワチキは”生”のエビのアレルギーであって、焼いたりゆでたりと火を通していれば大丈夫なのである。
と言ったら、「ふーん、あ、そんなんあんねや」と大抵の人は少し興味をそがれた感じになる。
大抵の場は、なんか、ワチキがちょっとサブいこと言ったみたいな空気になる。
甲殻類アレルギーの人って世の中に一定数いるけど、大抵の人は焼こうがゆでようがアレルギー症状が出るもの、ということになっている。そういう意味ではワチキは例外的なアレルギー症状であり、結構いじりがいがある症状だと思っている。少なくとも「なんでやねん!」の一言は欲しい。
「なんでやねん!」
「いやいや、ほんまやねんって」
「んなことあるかいな」
「火ぃ、通したらいけるねんって」
くらいのやりとりはしたいのである。
けど、ワチキも、同席した人から何かしらのアレルギーやとカミングアウトされても、そのアレルギー症状をいじれるか、というと多分無理なのである。
弱者にはキツイこと言うたらあかん、みたいな空気があるのだろう。
では、なぜ、弱者にはキツイことを言ったらダメなのか。
「弱いものは守らなければいけない。」「弱いものいじめはダメである。」という道徳的、感情的な主張がある一方で、
「弱いやつなんてほっといたらええねん」「足引っ張る奴は切り捨てるしかないな」という強者至上主義的、合理的な主張がある。
それでは、弱者と強者を分ける一線は何か。
そもそも弱者、強者とは何か。
人はみな弱者である
と思う。
正確には、人はみな弱者になりうる かな。
”今は強者だと思っていても、不慮の事でいつ弱者になるかわからない。だから・・・”という説法臭いことではなく、強弱を決めるのは相対的なものであるという視点がひとつ。そして、人にはどこかしら弱いところがあるという視点がもう一つ。
強弱を決めるのは相対的なものである、という視点について。物事の弱者というのは、ある一線を越えたら弱者になる、というものではない。そもそも強者、弱者とは、あるコミュニティ内での線引きに過ぎない。あるコミュニティでは強者だったものが別のコミュニティでは弱者になりうる。
例えば、田舎の高校生たちの中で数少ないセックス経験者がいたとする。彼らはセックス経験者というポジションを確保しており、未経験の童貞たちを「だからお前たちはダメなんだよ」と弱者呼ばわりするかもしれない。
そんな彼らも、都会に遊びに行き、そこが10人切りは当たり前どころか、3P、乱交、青姦、なんでもありの世界ならば、「お前みたいなもん、童貞と一緒やんけ」と即座に弱者になる。そして、逆に、そのようなセックスに開放的なコミュニティなら童貞こそ重宝されるかもしれない。「イマドキそんな刺激で楽しめるんや。神ってる」てな具合に。
更に言うと、田舎の童貞コミュニティにおけるセックス経験者は、ひょっとしたらメチャメチャ字が汚く、どれだけ練習してもキレイな字が書けないかもしれない。書道の時間に「セックスしてもお前の字の汚さは一ミリも変わらんな」と言われるかもしれない。
足が遅いかもしれないし、絵が下手かもしれない。リズム感がないかもしれないし、お酒が飲めないかもしれない。長編小説が読めないかもしれないし、度胸がないかもいれない。人より弱いところは誰にでも何かしらあると思う。
ある限定的でたまたま属するコミュニティにおいて、ある側面だけを取り出して弱者呼ばわりすることの無意味さというか、視野の狭さがそこにはある。
更に考えると、人は、何も”できない”状態で生まれ、成長するにつれいろいろなことを”できる”ようになり、年を取るにつれ何も”できなく”なっていき、死ぬ。
結局は、いつか”できなく”なるのが人だとするならば、いかに”できる”を維持するか、どうすれば”できない”を”できる”にできるかが課題になる。
”できない”を切り捨てるのではなく、”できない”を”できる”にするとか、”できな”くても幸せに過ごせる方法を考えることが新しいモノを生み出す原動力であり、ひいてはたまたま強者だと思える環境にいるだけの自分の将来を救うことにもなるのだと思う。
蛇足。
弱者って英語ではunderdogというらしい。
え?犬より下?
ではなく、下の犬ということみたいです。
日本語の「負け犬」とほぼ同じ意味の語。今風の言葉で言えば「負け組」といったところになるのでしょうか。この逆がtop dog となりますが、これは犬のケンカの勝敗はどちらが上になるかで決まることから由来する表現です。(毎日ひとこと :一度は使ってみたくなる,使える英語の会話表現より)