キングダム最新刊発売とリーチサイト実刑判決

キングダム最新刊、53巻がついに発売に。

早速コンビニで買って通勤帰りに熟読。

いい歳こいたおっさんが、通勤帰りの電車で涙ぐみ、いや、そこまではいってない、目頭が熱くなりましたわ。

ネット上の評価では、前巻の52巻についてのコメントで、戦(いくさ)一辺倒なのはどうなのよ、っていう評価もあるようだけど、戦こそがやっぱりキングダムの真骨頂ですわ〜。

生きるか死ぬかの争いの中での、個のキャラクター視点と集合体としての軍視点の往復がなんともスリリングで。 最終的な結果は分かっているのよ。秦の始皇帝が中華を統一するってのは。

そして、それを支える下僕の出の信が大将軍に駆け上がっていくというのも。

この、結末が分かっているのに、こんなに面白く描けるの?っていうのがキングダムの凄いところ。

結局何事もそうなのかもしれませんが、結果よりもプロセスが大事ってことなのかもなぁ。

世の中では、漫画の海賊版サイト「リーチサイト」の運営者に実刑判決が降ったようで。

無料で読めるものなら無料で読みたい、という気持ちも分からなくもないし、未だにというかコンビニで立ち読みしている人もいるし、アッシも本屋でちょっと立ち読み、というか試し読みはするし。

ただ一方で、著者にお金が流れないと、結局いいコンテンツは生まれないっていうのも分かっているし、何よりも、本や漫画を所有するっていうことに対する欲求というか、本棚に本や漫画がぎっしりと詰まっていることの充実感が好きなので、本、漫画は買い続けますが。

ちなみに、週刊連載ものの漫画(小説とかコラム集含め、漫画に限らないかもしれないけど)の単行本ってどのタイミングで買うのが正解なんだろう?

①単行本が出るたびに買う(アッシの今のキングダム)

②週刊連載を読みつつ、単行本も買う(昔、スラムダンクとか幽遊白書とかがそうだった)

③週刊連載だけ読んで、単行本を買わない(さすがに週刊誌を毎週読むってのも減ってそうだけど)

④ある程度一区切りついたタイミングで一気に単行本を大人買い(そもそもキングダムのは始まりはこれでした)

う〜ん。一長一短やけど、これはもうちょっと考察を深めてみよう。

ちなみに、キングダムを読んだことのない方へ!

1巻よりも、まず最新刊53巻を読んでほしい。背景情報無しでも全然楽しめる!というよりむしろ、この面白さが純粋にすっと入ってくるはず。ポチッと。

親友がいない人へ。親友とは心の関係である。

友達との関係で、何かをやってしまったとき。

例えば、友達に借りていた本を破ってしまった。

友達との約束をすっぽかしてしまった。

友達に口汚い言葉を放ってしまった・・・

こんなとき、 「ごめんごめん。まぁ友達やん、許してよ」 といった類の言葉を言うこととか聞くことがあると思うけど、これ、何か違和感があるんだよな。

恩着せがましいというか。

勝手な時だけ友達づらするなよ的な。

まぁ友達っていう概念がフェイスブック以前フェイスブック以後で変わってしまったので 親友に置き換えてみるとよりクリアになるんだけど、

(ちなみに、どうでもいいけどフェイスブックに親友申請とかはないな。)

「ごめんごめん。まぁ親友やん、許してよ」って、親友には絶対に言わないし、そんなこと言ってくる奴は親友じゃない、と感じてしまう。

(ジャイアンっぽいな。おい、のび太、俺たち友達だろ!的な)

で、この違和感の背後にあるのは何だろうと探索してみると、 もちろん、たとえ親友であっても、 借りた本を破ってしまうことや、約束をすっぽかしてしまうこと、時には勢い余って口汚い言葉を発してしまうこともあるだろう。

そして、ふと我に返って謝る。

「ごめんごめん。そんなつもりはなかってん」と。

で、受け手が、「ん〜、もう、、、  、、、まぁええよ」

(ことの重大さによって、ん〜、もう、、、の時間が数秒のこともあれば、数年かかることもあるだろうが)これで終わりなのである。

これで終わりになる心と心の関係を人は親友と呼ぶのである。

仲が良いから許すのではなく、何かあったときにも許せる心の関係性を仲が良い(親友)と言うのである。

何かあった時にも許しあえる心の関係性を大切にしたいものです。

ふと、数年前、親友に貸した本がボロボロになって返ってきたことを思い出して綴ってみました(本人曰く、ズボンの尻ポケットに入れてジョギングをしていたそうで。) ちなみに、その本は、夏目漱石「こころ」。

ということでお後がよろしいようで。

AI vs 教科書が読めない子どもたちに見るAIノストラダムス論

仕事やメディアを通じて、AIという言葉を耳にしない日が無い今日この頃。AIが産業構造やライフスタイルを変えていくなんてことが声高に言われ、シンギュラリティ(AIの進化が人間の進化を上回る「技術的特異点」)はいつ来るんだろう、本当に来るのか、予想よりも早まっているらしい、とかなんとかっていう議論がかまびすしい。

アッシとしては、そんなにAIってすごいのか、いまいちピンとこないし、いや、確かに計算処理能力はすごいとは思うけど、そんなことはパソコンを手にした段階ですでに分かっていたことだし、それを超えて人間の知能を超えるなんて言われても、えぇ~~~?としか思えない。ノストラダムス的な。

ノストラダムスと言えば、アッシはまさにノストラダムス世代。中高校生の頃、週刊マガジンで不定期連載していたMMRマガジンミステリー調査班にやられ、どっぷり、とはいかないまでも、ノストラダムス論争を興味深く追いかけていた。

かつては、ノストラダムス、というのは社会の共通言語になっていたと思うけど、今の若い子とか、それこそ子どもとかは、なんじゃそら?って感じなんだろうなぁ。

それにしても、このMMRマガジンミステリー調査班は、良くできたマンガで、今思えば情けないくらい、当時の純粋なアッシは踊らされていた。

ノストラダムスはもちろんのこと、海底遺跡だとか、ネッシーだとか、U.F.Oだとか、とりあげるテーマが食指をそそるものばかりで、あるときは、マンガ上で調査班員(週刊マガジンの社員という設定)の一人が失踪したりなんかもして、なかなか信憑性のある演出が施されていたのである。

それで話をAIに戻すと、AIで生活が豊かになるというAI万能視の文脈であれ、AIが人間の職を奪うというAI恐怖視の文脈であれ、なんかことさらAIのことを人間を超越した存在のように取り上げるのって、どこか当時のノストラダムスに近い感じがするんだよなぁ。

MMRマガジンミステリー調査班の役割を、落合陽一なる人が担っているような。アッシは特段、落合氏の言説を読んだことは無いので実際のところはどうなのかは知らないのだけど、なんかこの人の、時代の寵児的な取り上げられ方がイラッとするというか。申し訳ないのだけど顔もいけ好かない。

そんなこんなで、アッシはAIに対してはその存在自体を批判的にとらえている。酸いも甘いもかぎ分けられる大人なのでもうノストラダムスに騙されるようなことはしないぞと。

そんな折に出会ったのが、本書、AI vs 教科書が読めない子どもたち。

詳しい書評は、またの機会に書こうと思うのだけど、アッシのAI批判視を理論的に裏付けしてもらったような印象の一冊ですわ。

【書評】『君の名は。』は小説を先に。12モンキーズは吹き替えで

君の名は。

いっとき、映画のCMをめちゃめちゃ見かけた。♪君のぜんぜん前世から~♪の曲とともに。

CMはめちゃめちゃ見かけたけど、あまり興味もなく、女子高校生と男子高校生が入れ替わるとかなんとかで、岐阜県に聖地巡礼するのが流行っているらしい程度しか認識していなかった。イマドキの若者向けのまぁそんなに大したことない映画やろうなと思っていた。

そんなとある日、ひょんなことから小学校高学年の娘が『君の名は。』の小説を買ってほしいとのことで買ったら速攻で読み終わっていて、おもしろかったを繰り返していた。

まぁせっかく小説買ったし流行っているみたいやしということでワチキも読んでみると、

めちゃめちゃおもろいやんけ~!!

通勤電車で読んでたのだけど、ところどころ吹き出してしまった。

ストーリーはすごく単純で、前情報どおり、岐阜県の田舎に住む女子高校生と都内に住む男子高校生がちょこちょこ入れ替わる話なんだけど、思春期まっただ中の男女が入れ替わるとこうなるか~という、高校生思い出あるあるがめっぽう面白い。

まぁ時空を超えて人と人が入れ替わるなんて設定は奇想天外もいいところなんだけど、古き伝統の残る村社会の様子とか、都内の高校生の生活がやけに生々しくて、フィクションでしょと一笑に付して終われない手触り感がある。

ただ、多分これ、映画で先に見てたらここまで楽しめなかっただろうなと思う。客観的に見るとやっぱり結構さぶい設定とか演出が入っているし、キャラクターの萌え要素とかちょっとしたエロ要素とかのディティールを意識してしまいそうで。

なので、小説を先に読むことをお勧めします。

で、時空を飛び越えるといえば12モンキーズ。

これも、テレビドラマシリーズの番組宣伝か何かであらすじを見て、近未来の世界がウィルスで壊滅的になるとか、それを防ぐために近未来からタイムトラベルでウィルスを作った科学者を消そうとするとかっていう前情報はあったけど、まぁそんなに興味なかったのが、たまたま深夜番組で見かけたので視てみたら結構面白い。

アメリカドラマにありがちな、ジェットコースター的にストーリーがグングン進んでいって、緊迫感の連続で飽きさせない展開になっているし、テレビだと吹き替えだから楽に見れるのよね。

昔、いきがっていた頃、友達が「吹き替えなんか見てたらあかんな。字幕と全然ちゃうもん」と言っていて、「そうか、映画は吹き替えじゃなくて字幕を見るっていうのがステータスなんやな」と思って以来ずっと字幕至上主義で来たけども、この年になって、もういきがることもなくなると、吹き替え楽やわ~。

画面集中せんでいいからなぁ。耳で聞きとる英語が字幕上どう訳されているか?とか気にせんでええし。ちょっと英語で聞き取ったろとかって調子にのって字幕を見ずにいたら、英語を聞き取れきれずに意味がよくわからなくなったりすることもないし。

で、12モンキーズ。第1話では無事にタイムトラベルでウィルスを作ったやつを殺すも、未来は変わらず。。。ということで来週の第2話に続く。

【書評】挑む力(桑田真澄)に見る、前近代的野球の凄まじさ

プロ野球見えないファンプレー論(仁志敏久)に続き、元巨人軍桑田の野球本。

桑田といえば、PL高校卒業時、早稲田大学に進学すると言いながら巨人に指名され、巨人入りを熱望していたPLの同級生、清原を横目にひょこひょこと巨人入りした人物。

そのプロセスの不透明な感じといい、顔といい、巨人時代は毛嫌いしていた。

とはいっても、フィールディングセンスや、バッティングセンス、そしてコントロール抜群の投球術は敵ながらあっぱれとしか言いようがなかった。なので、巨人を辞め、メジャーリーグに挑戦するようになってからは、ネガティブな印象も薄まっていた。メジャーあと一歩というときに怪我したときなんかは、最後の夢をつかめ!と応援もしたし、メジャーのマウンドに上りつめたときは、ほんとよかったなぁと心から思った。

そんな桑田の、少年時代から、中学、高校、プロ、メジャー挑戦を経て、早稲田の大学院で勉強したことについて振り返った自伝。

やっぱり当時の野球環境ってすさまじかったんだなという印象を強烈に受ける。

しごき、体罰、水禁止、・・・。噂ではなんとなくイメージしていたけど、本人の体験談として読むと一層生々しいし、よく野球を続けられたなぁと関心もする。

そもそもは戦争時に野球を続けるため、野球=軍教育の一環、という隠れ蓑をかぶるために、軍事鍛錬さながらのことが行われた、ということが発端のようだけど。

そんな環境下でも、桑田も仁志同様に、メチャメチャ頭を使って、自分で考え、試行錯誤を繰り返してきたってことがよく分かる。これは、一流になるためには、いつの時代も普遍的に重要ことなんだろうな。

【書評】色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年で、あなたも村上春樹がちょっと好きになる

村上春樹って、ちょっとフワッとしたというか、無意識領域というか、あるいは観念領域というか、女的というか、はたまた文系的というか、それ持ち出したら何でもありやんけ的なスタイルで、どこかで、ちょっとというか、結構、嫌っていた。

今思えば、村上春樹を好きな人を嫌っていたんだと思う。ひょろっとした、男女、文学好きです、みたいなやつをイメージしていて。

けど、多崎つくるはおもろい。もちろん、観念的なスタイルは残っているけど、謎の呈示から解決へのアプローチが、わりと論理的に、というか理系的というか、あるいは男性的というか、はたまた筋肉質的というか、で進む。

これは、前から思っていたけど、時折出てくる性的な描写が実に気持ちいい。官能小説にあるような、蜜坪とか、鮑とかみたいなリアルな具象描写ではなくて、気持ちと気持ちのまぐわりを描写している感じで。ここは観念的なよさが出ている。

また、村上春樹小説って、日常の描写もすんなりと入ってきて、現実にはないけども、断片的にはありそう、と思わせる描写がうまい。
ビールを飲む様子とか、パスタをゆでる様子とか、ワインとチーズをつまむ様子とか。
この辺りの描写がうまいから、全体のストーリーがイマイチ入ってこなくても、これまでも知らず知らずのうちに読みきってきてたってのが実際だった。

多崎つくるは、そんな、性的な描写や日常描写そのままに、ストーリーが論理的になったから、間口が更に広がったんだろうな。

【書評】舟を編む(三浦しをん)に見る、本屋大賞は伊達じゃない

舟を編む。

今思えば、本屋大賞受賞作。辞書作りの話っていうのはなんとなくは知っていたけど、パラパラ見た印象はビブリア古書堂みたいなラノベ的な感じかなぁと思ってた。

辞書の編集って、辞書だし国語だからさぞかし文系的な仕事かと思っていたら、全然理系。情緒的、感情的な表現の話ではなく、いかに必要最小限の文字数で言葉を定義できるかが勝負。

例えば、【西行】のページでは、ダメな定義が、

平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した歌人にして僧侶。出家前の名前は佐藤義清。(以下略)

一方で、目指すべき定義は、

平安末・鎌倉初期の歌人、僧。法名は円位、俗名は佐藤義清。

となる。

このように、職人気質というか、オタクというか、マニアの人たちが、没頭しながら辞書を編集する様子が描かれている。

ただ、登場人物全部が全部、職人気質の人ではない。職人気質的に没頭する対象がない、ただの一般人も良い味付けとして出てくる。

職人気質的に没頭する彼らを変人と思いながらも、うらやましいと思う一般人。そんな一般人が、「一般人である」ということを武器に辞書作りの中で自分の存在意義を見いだす様子に、一般人の読者が感情移入ができるようになっているのも絶妙。

更には、登場人物たちの織り成す恋愛エピソードが、これまた、爽やかで清々しい。ちなみに、この小説には悪い人が一人も出てこない、というのもあってか、辞書編集っていう、暗くてジメジメしたイメージの作業について書かれていても、どこか爽やかな印象を受ける。

章によって主観となる人物が変わっているのも、変化があって飽きさせない。

また、時間軸的には、結構なスピードで展開していて、下手な作者だと、変にシリーズものとかにしそうだけど、冗長な部分はカットして一冊にまとめてるのもグッド。

これ読めば、辞書という書物に対する見方が変わりますわ。改めて、辞書ってスゴイというか。辞書、読みたくなる。誰かが、もし無人島に一つだけモノを持って行けるとするならば百科事典、と答えていたのを見たことがあるけど、その気持ちがちょっとわかるかも。

さすが、本屋大賞!


中学校の部活動、教員はどう考えている?(中澤准教授)に見る、部活動とPTA

中学校の部活動、教員はどう考えている?という記事を読んで。

中学、高校、大学と部活をやってきた僕としては、その存在を当たり前のように受け止めていたけど、よくよく考えると、何とも不可思議な活動体であることが分かった。

筆者によると、

●部活動は、教育課程外の活動である
●戦後から教師が教育の一環として関わるようになった
●1970年代~80年代に、学校の荒れが問題になり、部活動を通して生徒を管理するようになった

とのことで、

現在の部活動は、待ったなしの課題に直面しています。最優先に考えるべきは事故や暴力などから子どもの生命を守ることです。そして、教師の生活を守ることです。そんな深刻な状況を踏まえると、現状はやり過ぎのように映ります。そもそも、自主性が大事だといいながら、本当のところ全く自主的ではないことも多い。

とのこと。

確かに、教師の立場からすると部活動はボランティアである。ボランティアで自身の生活や、本分である教師としての仕事がおろそかになるのは本末転倒だろう。ただ、ボランティアといっても、ごみ拾いボランティアとかとは訳が違い、仕事と密接にかかわっているところがグレーゾーンを生んでいる。このあたりは、教師にとってのPTAとも似ているかもしれない。

PTAも任意加入の団体であり、加入も活動もボランティア精神に基づくものだと僕は思っている。保護者はそれでいいのだけど、教師はどうか。ボランティアとはいいつつも、PTA活動は仕事と密接にかかわることである。

なので、もちろんPTA活動に協力するかどうかは自発性が問われるわけだけども、仕事のことを考えると、協力しておいた方が良いなとか、学校として協力することがほぼ強制的になっていたりもする。それによって生活が危ぶまれるほど残業が生じる、なんてことはないけど。

本当は部活動のあるべき姿について僕なりの意見を書こうと思ってたけど、それはまた今度。

【書評】毎月新聞(佐藤雅彦):つまらない毎日をちょっと面白く生活する視点が盛りだくさん

著者は元広告クリエイターで、今もだと思うけど、慶應大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の教授。日常の中の、ちょっと気になることを見つける視点が秀逸。

特に好きなのが、「ブーム断固反対」というコラム。ブームとは何か?を明晰に表現。

 個人が、ある商品を「必要」として買う。あるいは「好き」で買う。これはとても健全な消費の形である。(中略)それに対し、ブームになる消費は大分違ってくる。まわりの人が持っているから、マスコミがものすごく取り上げているから、といった理由が動機づけの多くの比重を占めてくる。(中略)そのとき、個人個人は、その商品の本来の価値よりも、「その商品を手に入れるかどうか」が大きな価値基準となり、人々は手に入れることによってかなりの部分で満足させてしまう。

行列のできるパンケーキ屋も、オシャレな欧風雑貨屋も、iphoneもそうかもな。一発ギャグ芸人もそうかも。ブームとなっているものは、中身が良いから流行っているんじゃなくて、流行っているから流行っているってことなんだよな。それが良いか、悪いかは別問題だけど、自分自身は、中身の分かる人でありたいなぁとは思う。iphoneから格安スマホに替えたし。

もう一つ「情報の力関係」というコラムも面白い。

             →

          左を見なさい

とあった場合、多くの人は右を見てしまう、というもの。”左を見なさい”という表記よりも、矢印の方が情報の力が強い。

企画書でもよくある。普通、視線は上から下とか、左から右に流れるものなのに、下から積み上げている図とか、右から左に因果関係を引いている図とか。メチャメチャ見にくい。全然読み手の事を考えていない企画書。それだけで、その人のスキルというか、思いやり力、気づき力の無さが分かる。

普段何気なく過ごしていて感じる違和感や、あれ?の兆しをうま~くすくって、分析している良書です。

【書評】ショッピングモールから考える(東浩紀、大山顕)でモールの見方が変わる

「ショッピングモールから考える(東浩紀、大山顕)」を読んで。

ショッピングモールって、郊外のファスト化(その土地その土地の良さが無くなり、どこに行っても同じような建物、お店が並ぶようになること)の象徴としてネガティブに捉えられることがよくある。駅から離れたところにショッピングモールができたせいで地元の商店街が壊滅した、みたいな。

そうか?とずっと思っていた。

ショッピングモールが商店街のシャットアウトの最後のひと押しになったかもしれないけど、ショッピングモールが無くてもジリ貧だったんじゃないかとか、ショッピングモールに人が流れるようになるってことはそれだけ求められていたってことじゃないのかとか、商店街は地元に住んでる人はどうせここで買うしかないから来るわ、とあぐらをかいて何の努力もしてなかったんじゃないのかとか、結局ショッピングモールができて踏ん切りがついてよかったんじゃないの、とか思ってしまう。

だってショッピングモールめっちゃええやん。晴れでも雨でも快適に過ごせるし、服見て靴見て本読んで、ご飯食べて、服買ってお茶して夕飯買って。1日過ごせる。安全やし。トイレもキレイし。

本書もそんなショッピングモールを好意的に捉えながら、ショッピングモールはもちろんディズニーワールドについても興味深い考察を深めている。

特に印象的なのは、アメリカのディズニーは施設に行くまで、帰る時も含めて徹底して体験を作り込んでいるという視点。オーランド空港に到着したら専用シャトルバスでパーク内のホテルまで直行なので一切街に触れることがない。パーク内のホテルだとスーツケースもホテルに届けてくれるみたい。

ホテルに着いたらあとはパークで遊ぶかホテルで過ごすだけ。ワチキも春に行ったけど確かにそうだったなぁ。一切街に出ていないもんな。移動は全部シャトルバスで。オーランドだろうがフロリダだろうが一切関係無くて、単にディズニーに行ったという体験だったもんなぁ。

で、この体験が、車でショッピングモール併設の駐車場に乗りつけてそのままショッピングモールで滞在してまたそのまま車で家に帰るという体験と酷似しているという指摘には至極納得。確かに家出るところから帰ってくるまで外気に触れずに完結しているし、1日過ごせるし。

目指しているのかどうかはわからないけど、ショッピングモールがディズニーに一番近い施設ってのは納得できるなぁ。