「正解がない問いに挑む力を養うべし」とか、「もはや課題は誰も与えてくれない、課題は自分で見つけなければならない」とかってことが教育の場や就活の場、ビジネスの現場とかでもよく聞くようになった。
「正解がない問いに挑む力を養うべし」って、これまでの知識詰め込み型の受験勉強に対するアンチとしての文脈で語られることが多い。
更にそれは、知識詰め込み型教育の最高峰である東大生や東大出身者を批判的に語る文脈とセットになっていることが多い。
東大生は答えがあらかじめ決まっている問題に対して経験則から答えを要領よく導くのは得意だけど、答えのない問題に取り組むこととか、問い自体を考えなければいけない今の世の中では通用しない、みたいな文脈で語られる。
けど東大入試ってずっと昔から、経験則から解答パターンをあてはめる問題よりは、その場で自分で考える初見の問題が出題される傾向があるし、知識詰め込み型指標の象徴であるセンター試験の点数の影響力が最も薄かったりもしている。
それはさておき、最近、この「これからは正解が無い問いに挑まなければいけない」っていうのが、なんか安易に使われ過ぎることのデメリットみたいなものを感じる。
一番問題を感じるのは、正解が無い問いに挑むがゆえに、答えを出すことに臆病になっている、というかあえて答えを出さないことを是とする風潮があることだ。
例えばサンデル教授風の例題でいうと、
ゴムボートに定員オーバーのぎりっぎりの人数で乗りながら海で漂流していたときに、おぼれかけている人を見かけた。
けど、ゴムボートは今にも沈みそうだから、おぼれかけている人を助けるには誰かがゴムボートを降りなければいけない。さぁどうする?
みたいな問いに対して、
おぼれかけている人を見て見ぬふりする。一番体が弱っている人がゴムボートから降りる。老人が降りる。泳げる若者が降りる。などなど、いろいろ選択肢がありうる。
唯一の正解は無い。
だから考えなければいけない。対話しなければいけない。とサンデルは言う。
確かにそう。
けれども、対話で終わってはダメだと思う。
対話の先に、自分としての答えを導かなければいけないと思う。
正解が無いからと言って答えを保留していては結局何も解決しないし、何も進まない。おぼれかけている人を前に対話していてはおぼれるのを待っているだけだ。
ビジネスの現場でも、あらかじめ正解と分かっていることなんて一つもない。「これをやれば成功する」なんて謳っている書籍はウソッパチだ。
成功することもあれば失敗することもある。
かといって何もしなければ、失敗すらできない。
答えを出すのは怖いことだ。答えを出さずに誰かの答えを批判する方がよっぽど楽だ。
けれども、答えを出さない限り何も進まない。
自分がコレ!と信じる道を突き進むしかないのである。