日経新聞に、石井洋二郎 東京大学理事・副学長が「大学入試の記述式問題」について至極まっとうで興味深い論を述べている。
背景として、
大学入試のセンター試験に代わる共通試験なる新テストに、記述式問題を導入する議論が進んでいるようで、
それについて石井氏は、
共通試験はマークシート式を維持し、大学の個別試験で記述試験の出題を義務付ける案、を提唱している。
記述式問題導入の根拠として、
現代は正解なき時代であり、あらかじめ存在する正解を探す受け身の学びから主体的な学びへの転換を図らなければならない、というのがあるみたい。
これに対して石井氏は、
とはいっても試験は、なんらかの「正解」を想定しなければ成立しない。
客観的な評価基準となる「正解」とまではいわないまでも、「望ましい解答」のイメージの共有が必須である。
すると、受験者は高得点を得るために、
リスクを冒して独自の見解を展開するよりは、出題者の期待する解答を推測し、与えられた条件に留意しながら無難な答案を書くことに意を注ぎたくなる。
また、記述式試験の本来の目的である「知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等」を本気で判定しようと思ったら、
相当の時間と労力をかけて一枚一枚の答案と真摯に対話しなければならなくなる。
と指摘する。
さらに、マークシート式であっても出題の工夫次第で、理解力や思考力を相当程度の精度で測定することは十分に可能である。
と主張する。
至極まっとう。
正解がない時代に求められる力に、正解なんてないはず。
もはや何が正解なのかが分からないのだから、どんな力が必要になるのかも分からないはず。
記述式試験の目的として挙げられている、
「知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力を判定する」という表現がおかしくて、
これからの時代は何が課題なのかわからないし、何が課題を解決することになるのかもわからないのに、
なぜ、課題を解決するために必要な力があるかどうかを判定できるのか?
「あらかじめ存在する正解を探す受け身の学びから主体的な学びへ」で言っているのって、
要は、世間で言われているような正解を鵜呑みにせずに、自分の頭で考えよう、ってことなのだと思う。
で、この、自分の頭で考える力があるかどうか、なのだけれども、
これって、それこそ、そういう力が ”ある” か ”ない” かであって、
自分の頭で考える力が ”すごくある人” から順位をつけるなんてできないと思う。
自分の頭で考えることが得意な領域と苦手な領域とかもあるだろうし。
とかって考えると、共通試験なるもので、主体的な学び力を、ある共通の尺度で順位付けしようとすること自体の意義がよくわからない。
大学ごとの個別試験では、公平な共通の尺度で順位づけする必要は無く、判定する領域とか判定の仕方に偏りが生じても良いと思う。
そもそも、大学ごとに、うちの大学にはこういう人材が必要だ、っていう偏りがあるのは当然だと思う。
ただそれだと受験者数が増えすぎて困るっていうことであれば、共通試験で最低限の知識とか理解力を問えばいいのではないか。
「あらかじめ存在する正解を探す受け身の学びから主体的な学びへの転換を図らなければならない」とかって聞くと、
あらかじめ存在する正解を探すことが悪いみたいに聞こえるけど、
あらかじめ存在する正解を探すこともできない人が、正解がない時代に、課題を発見し、解決策を創りだすことなんてできないと思うけどなぁ。